実におもしろかった。文庫化されたら買って手許にもっておきたい。
巻末に長女佳織さんによる後記があり、本書の成り立ちについて「ああでもない、こうでもない」と推測しつつ読み進んできた者の目からすると、ちょっとしたドンデン返しになっていて爽快である。
やられた。
本を読んだらブック オプ
実におもしろかった。文庫化されたら買って手許にもっておきたい。
巻末に長女佳織さんによる後記があり、本書の成り立ちについて「ああでもない、こうでもない」と推測しつつ読み進んできた者の目からすると、ちょっとしたドンデン返しになっていて爽快である。
やられた。
昭和34年12月13日(日)には
一家ではじめて多摩動物園にゆく(日記本文参照)。
とある。自由業なのだからわざわざ混んでそうな日曜に行かなくてもよさそうなもんだがなと思う。実際そのしばらく前には娘さんから「お父さんはどうして会社に行かないの?」などと訊かれている。
と思ったが、よく考えたらその娘さんはすでに幼稚園児。だからこそ他の子たちとの比較から「お父さんはどうして」という疑問が生じたのだろうし、山田一家として動物園に行けるのは日曜しかないのだった。
註によれば「日記本文」というのはこの育児日記とは別につけられていた、おそらくメインとなる日記のこと。てっきり一連の日記帳から子供に関わる部分を抜き出して編纂されたのがこの『育児日記』かと思っていたのだが、もとから別々に書かれていたらしい。
山田風太郎はすでにこの時期からHTMLのハイパーリンクにあたるものを実践していたのだった。
角川映画はほとんどお気に召さなかったようだが、つかこうへいの『小説熱海殺人事件』や『銀ちゃんのこと』およびその映画化作品『蒲田行進曲』については素直に面白がっていて、ちょっと意外なような気もしたが嬉しかった。
松山巌による巻末解説は大部分が『虚無への供物』の解説に割かれていて、それはちょっとずるいだろと思ったりする。でもみんな書きたいんだろうな。付録の田中幸一の文章がたいへんよい。
山田正紀『仮面』(幻冬社文庫)を昨日読了。これは苦しい。
前作『阿弥陀』(同)ではエラリー・クイーンばりに論理的だった風水火那子が、この作品では単なる種あかしの人でしかない。作者によって用意されたトリックとその真相を「それ以外に解釈の余地はありえない」「必然的にこれしか残らない」という検証もなしに漫然と解説するだけの存在。
帯に「どんでん返し」とあるけど全然どんでん返ってないし。
『螺旋』の風水林太郎による「~だろうぜ」の連発もそうだったが今回の「タケシタ」による「~なのよな」の繰り返しもうざったい。
ほぼ冒頭に探偵役による謎解き場面をもってきた実験的な造りに期待させられたぶん後半はがっくり。不本意ながら酷評となってしまった。
図書館で山田風太郎『わが推理小説零年』を借りてきて読む。その中に「処女膜は人間の女性とモグラの雌にしかない」みたいなことが書いてあり、そんなに特殊なものなのかと意外に思ってウィキペディアで確認したらモグラ以外にもいろんな動物にあるらしいとわかる。
哺乳類はいうにおよばず、鳥類、爬虫類、そしてなんと貝類にも。
昭和24年の時点で判明していたのがモグラだけだったのか、山田先生が(試験直前には原稿の依頼を断るなど決して名ばかりの医学生ではなかったらしいので)たまたまそこのところだけ勉強をサボったのか、あるいは話を面白くしようとして思いっきり単純化して書いたのかもしれない。
ある人物Aが殺人容疑で留置所に入れられてしまう。そして物語は取り残された人々を中心に進んでいくのだが、しばらくするとAにはなじみの囚人仲間でもできたらしく、p.258に
例のガラス壜の破片の紳士が坐りこんで、さかんに身の上話をしてきかせている。
という描写が出てくる。
「例の」? はて、そんな紳士出てきたっけか? と、すっかり記憶力に自信を失いつつ、ページを遡って探していく。
するとp.234に、Aの身を案じる人物Bの述懐として
ついこの間の新聞にも、それまで一面識もなかったような少女を犯した上、絞め殺した男のことや、また別に、居酒屋の喧嘩で、女をガラスの破片で殴って傷つけた男のことが出ていたが、
とあるのが見つかる。
Aがそんな犯罪者たちと一緒くたに勾留されているのではないか、とBは心配しているわけだ。
が、この段階では「女をガラスの破片で殴って傷つけた男」はあくまで「そんな犯罪者たち」の一例、ないしは「留置所に入ったらおそらく出くわすであろうような種類の人間」をイメージさせるものとして挙げられているようにしか読めない。
いくら似たような時期に逮捕されたとはいえ、どこで起きた事件だがわかったものじゃないし、それがAと同じ留置所に入れられようとは、ふつう一般には考えられない。仮にBが「ガラスの破片」云々を眼前にまざまざと思い浮かべていたところで、それはむしろ杞憂というか妄想と呼んでいいだろう。
というわけで、p.234の新聞紙上のガラスの破片の男は、われわれ読者の記憶からすぐさま消え去ってしまうのである。
が。
それがp.258の「一方そのころAは」のくだりになって突然、あたかも既知の人物であるかのごとく「例のガラス壜の破片の紳士が」などと具体化されてしまうのである。
このユーモアのセンスがたまらない。こういうのは映画とかなら比較的やりやすそうだが、活字でやるにはかなりの技巧を要するのではなかろうか。
ただ、この手の面白さは初めてではないような気もする。中井英夫の『虚無への供物』の、たとえば鴻巣玄次。あれがこんな感じじゃなかったかな。