The New York Timesの記事「What George Orwell Wrote, 70 Years Later to the Day」によると、ジョージ・オーウェルの70年前の日記がblog形式で公開されているそうな。
URLは http://orwelldiaries.wordpress.com/。1938年8月9日から始まり、1942年10月まで続く予定らしい。
本を読んだらブック オプ
The New York Timesの記事「What George Orwell Wrote, 70 Years Later to the Day」によると、ジョージ・オーウェルの70年前の日記がblog形式で公開されているそうな。
URLは http://orwelldiaries.wordpress.com/。1938年8月9日から始まり、1942年10月まで続く予定らしい。
『別冊文藝 山田風太郎』の中に唐沢なをき「唐沢直樹(14)、山田風太郎をヨム」という漫画が載っている。
唐沢少年には小説の登場人物に俳優やアニメキャラの顔をあてはめながら読むという癖があったそうで、その一例として『甲賀忍法帖』の
陽炎はなぜかルパン三世の峰不二子なのだ.(声はもちろん二階堂由紀子)
というキャスティングが挙げられている。(由紀子じゃなくて有希子だけど)
ここで「なぜか」の語は本来不要だ。「陽炎=峰不二子」という取合せは決して思いも寄らないものではなく、むしろ誰もが「さもありなん」と思うだろうからだ。
しかし「声はもちろん二階堂」というこだわりには「お、そうなのか」と注目せざるをえない。
なぜなら私は、実は不二子役の声優が、二階堂さんだったのは第1シリーズだけであり第2シリーズからは増山江威子さんに代わっていたということを大人になるまで知らなくて、ストーリーやキャラクター造形はいざ知らず、こと不二子の声に関しては子供時分は全く違和感なしに第1シリーズも第2シリーズも観ていたからなのである。
それには増山さんの声がキューティーハニーやらバカボンのママやらで慣れ親しんだものであったせいもあるだろうし、今なら確実に聞き分けられるにちがいない第1シリーズの不二子の声の翳りを帯びたアダルトさに対して当時はきわめて鈍感だったせいもあるだろう。
その違いを、唐沢直樹(14)は、リアルタイムで識別していたらしいのである。
さて、ウィキペディアによれば二階堂さんは今ではあの「クイズハンター」の柳生博夫人となられているそうだ。はて、柳生?
なんと、その柳生博についての記述の中には「剣豪として有名な柳生一族の末裔である」との一文があるではないか。風太郎忍法帖で言えば『柳生忍法帖』その他諸々の、あの柳生である。
甲賀の陽炎→(峰不二子)→(二階堂有希子)→(柳生博)→柳生一族、という摩訶不思議な連鎖。唐沢なをき、げに恐るべし。
図書館から借りてきた『別冊文藝 山田風太郎』(河出書房新社)を拾い読み中。
敗戦の日だからというわけではないが、谷口基というひとの文章「滅失の神話」が、短いながらも山田風太郎という作家の一面を見事に捉えていて感銘深い。
ロバート・トゥーイ『物しか書けなかった物書き』(河出書房新社)を図書館から借りできて読了。
EQMM等で活躍した短篇専門作家とのことだが、見事にバラバラな作風でどう受け止めたらいいのかよくわからない。
わりと目につきやすいのは「誰かに操られている」というテーマがさまざまに形を変えて頻出することだろうか。それをサイコホラーやSFに越境せず犯罪小説というジャンルに踏みとどまりながらやってみせるあたりがスリリングではある。
編者の法月綸太郎による解説は整理がいきとどいていて参考になる。この人はやっぱり評論家のほうが向いてるのかなぁ。
マーク・ハッドン『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(早川書房)読了。
主人公クリストファー少年の一人称。途中、コナン・ドイル『バスカヴィル家の犬』のネタバレあり。古典だからといってネタバレが許されると思ってるのか!!
でも子供の頃に読んだきりなので実はネタバレがどうかさだかではない。クリストファー少年が真犯人を間違えて憶えてるのかもしれない。ましてそのネタバレが養護学校に通う自閉症の少年によるものであれば、一概に怒るわけにもいかないような気もしてくる。
冒頭に起こった犬の事件が後半になってどうでもいいような扱いになってくるのがやや残念。結局この犬の事件というのは、そうは書かれていないけれども世に言う「自分探し」というやつの、単なる足がかりの役割しか与えられていなかったのだろうかと思うと一抹の寂しさが残る。
面白かったのはクリストファー少年が再三にわたって「これは隠喩ではなく直喩だ」とこだわるところ。「モンティ・ホール問題」というのはこの小説を読んで初めて知る。少年のよくみる夢というのが、いまだに忘れがたい星新一の「殉教」という短篇のラストシーンに一脈通じるものがあって興味深かった。
正直言ってあんまり面白くない。解説で平岡篤頼氏は
小説『箱男』の構造がいかに画期的な新しさを秘めているかを解明するには、(中略)かなり抽象的かつ専門的な議論を展開しなければならないから、ここではひと先ず差控えるが、
と書いているが、そんなことしなきゃ楽しめないようじゃ名作とは言えないんじゃないか。
でも103頁の「そう、ラジオ。じつは以前、」から始まり106頁の終わりまで駆け上がってゆく一節、ここばっかりは感動して涙が出そうになった。この部分だけスパークして見える。