2008年6月27日

セリヌンティウスの舟

セリヌンティウスが誰なのか、というかそれが人名であることすら知らずに読み始め、浮ついたところのない書きっぷりにしばしば感心させられながら先ほど読了。

これはまぎれもなく名作。何よりまずストイックである。

共通の趣味を通じて知り合った男女数名の会話が中心のストーリー。となるとえてしてマニアックな方向に筆が流れていきがちなものだが、スキューバダイビングについての言及は簡にして要をえていて申し分ない。

そして『月の扉』や『水の迷宮』ではどうしても馴染めなかった青くささというか学生っぽさも、この作品ではむしろ欠かすことのできない持ち味であるようにさえ思える。

終盤やや「走れメロス」に事寄せすぎだし、いささか思弁的ではあるものの、一幕ものの対話劇になったものを観てみたい気もする。マンションの一室からの場面転換が一見すると地味だがよくできており、特に p.186 のあたりには感動させられた。

これだけ純度の高い作品というのは、一人の作者が一生のうちにそう何本も書けるものではないと思う。とりあえず『扉は閉ざされたまま』にはしばらく手を出さないでおく予定。(解説がヤだし)

2008年6月21日

『山田風太郎 育児日記』読了

実におもしろかった。文庫化されたら買って手許にもっておきたい。

巻末に長女佳織さんによる後記があり、本書の成り立ちについて「ああでもない、こうでもない」と推測しつつ読み進んできた者の目からすると、ちょっとしたドンデン返しになっていて爽快である。

やられた。

山風育児メモ3

昭和34年12月13日(日)には

一家ではじめて多摩動物園にゆく(日記本文参照)。

とある。自由業なのだからわざわざ混んでそうな日曜に行かなくてもよさそうなもんだがなと思う。実際そのしばらく前には娘さんから「お父さんはどうして会社に行かないの?」などと訊かれている。

と思ったが、よく考えたらその娘さんはすでに幼稚園児。だからこそ他の子たちとの比較から「お父さんはどうして」という疑問が生じたのだろうし、山田一家として動物園に行けるのは日曜しかないのだった。

註によれば「日記本文」というのはこの育児日記とは別につけられていた、おそらくメインとなる日記のこと。てっきり一連の日記帳から子供に関わる部分を抜き出して編纂されたのがこの『育児日記』かと思っていたのだが、もとから別々に書かれていたらしい。

山田風太郎はすでにこの時期からHTMLのハイパーリンクにあたるものを実践していたのだった。

山風育児メモその2

これがあの『魔群の通過』『忍法忠臣蔵』の作者と同一人物なのかと疑ってみたくなるほど、淡々と記される断章の中にも娘や息子それに妻への優しい眼差しが感じられる。

が、昭和34年5月22日(金)付の

 啓子が知樹のすることなすことに笑うその笑い声は、特別製の声である。まさにトロケルような笑い声である。
 別に病的にわが子だけを可愛がるというタチでもないのにあんな声を出す。もって世の母親を知るべきである。

という一節などは、母親一般というものの不気味さが的確に捉えられていて、かの作家の冷徹さを垣間見せている。

山風育児日記メモ

図書館から借りてきて読む暇がなかった『山田風太郎 育児日記』に目を通す。

長女の名前は当初「悠子」にするつもりだったが区役所で当用漢字にないと言われて再考を促されたとある。

昭和29年の時点で「悠」は当用漢字表になかったらしい。平成の御世からしてみれば不敬きわまりない話ではあるまいか?

月蝕領映画館

中井英夫全集12『月蝕領映画館』読了。

角川映画はほとんどお気に召さなかったようだが、つかこうへいの『小説熱海殺人事件』や『銀ちゃんのこと』およびその映画化作品『蒲田行進曲』については素直に面白がっていて、ちょっと意外なような気もしたが嬉しかった。

松山巌による巻末解説は大部分が『虚無への供物』の解説に割かれていて、それはちょっとずるいだろと思ったりする。でもみんな書きたいんだろうな。付録の田中幸一の文章がたいへんよい。

2008年6月17日

購入メモ

昼休み、両替がてら石持浅海『セリヌンティウスの舟』(光文社文庫)を、昨秋読んだ『水の迷宮』が『月の扉』ほどには印象悪くなかったので、とりあえず購入。

2008年6月13日

仮面

山田正紀『仮面』(幻冬社文庫)を昨日読了。これは苦しい。

前作『阿弥陀』(同)ではエラリー・クイーンばりに論理的だった風水火那子が、この作品では単なる種あかしの人でしかない。作者によって用意されたトリックとその真相を「それ以外に解釈の余地はありえない」「必然的にこれしか残らない」という検証もなしに漫然と解説するだけの存在。

帯に「どんでん返し」とあるけど全然どんでん返ってないし。

『螺旋』の風水林太郎による「~だろうぜ」の連発もそうだったが今回の「タケシタ」による「~なのよな」の繰り返しもうざったい。

ほぼ冒頭に探偵役による謎解き場面をもってきた実験的な造りに期待させられたぶん後半はがっくり。不本意ながら酷評となってしまった。

2008年6月9日

『わが推理小説零年』読了

自分や自分の作品について書きたいと思うことがない、ニヒリストかさもなければ分裂症だ、というあたりが圧巻だと思う。

奥付のペンネームへの言及がなんだか変。

2008年6月8日

ヒトとモグラと

図書館で山田風太郎『わが推理小説零年』を借りてきて読む。その中に「処女膜は人間の女性とモグラの雌にしかない」みたいなことが書いてあり、そんなに特殊なものなのかと意外に思ってウィキペディアで確認したらモグラ以外にもいろんな動物にあるらしいとわかる。

哺乳類はいうにおよばず、鳥類、爬虫類、そしてなんと貝類にも。

昭和24年の時点で判明していたのがモグラだけだったのか、山田先生が(試験直前には原稿の依頼を断るなど決して名ばかりの医学生ではなかったらしいので)たまたまそこのところだけ勉強をサボったのか、あるいは話を面白くしようとして思いっきり単純化して書いたのかもしれない。

2008年6月1日

ブランドのここが面白い

クリスチアナ・ブランド『疑惑の霧』読み中。

ある人物Aが殺人容疑で留置所に入れられてしまう。そして物語は取り残された人々を中心に進んでいくのだが、しばらくするとAにはなじみの囚人仲間でもできたらしく、p.258に

例のガラス壜の破片の紳士が坐りこんで、さかんに身の上話をしてきかせている。

という描写が出てくる。

「例の」? はて、そんな紳士出てきたっけか? と、すっかり記憶力に自信を失いつつ、ページを遡って探していく。

するとp.234に、Aの身を案じる人物Bの述懐として

ついこの間の新聞にも、それまで一面識もなかったような少女を犯した上、絞め殺した男のことや、また別に、居酒屋の喧嘩で、女をガラスの破片で殴って傷つけた男のことが出ていたが、

とあるのが見つかる。

Aがそんな犯罪者たちと一緒くたに勾留されているのではないか、とBは心配しているわけだ。

が、この段階では「女をガラスの破片で殴って傷つけた男」はあくまで「そんな犯罪者たち」の一例、ないしは「留置所に入ったらおそらく出くわすであろうような種類の人間」をイメージさせるものとして挙げられているようにしか読めない。

いくら似たような時期に逮捕されたとはいえ、どこで起きた事件だがわかったものじゃないし、それがAと同じ留置所に入れられようとは、ふつう一般には考えられない。仮にBが「ガラスの破片」云々を眼前にまざまざと思い浮かべていたところで、それはむしろ杞憂というか妄想と呼んでいいだろう。

というわけで、p.234の新聞紙上のガラスの破片の男は、われわれ読者の記憶からすぐさま消え去ってしまうのである。

が。

それがp.258の「一方そのころAは」のくだりになって突然、あたかも既知の人物であるかのごとく「例のガラス壜の破片の紳士が」などと具体化されてしまうのである。

このユーモアのセンスがたまらない。こういうのは映画とかなら比較的やりやすそうだが、活字でやるにはかなりの技巧を要するのではなかろうか。

ただ、この手の面白さは初めてではないような気もする。中井英夫の『虚無への供物』の、たとえば鴻巣玄次。あれがこんな感じじゃなかったかな。