2008年6月1日

ブランドのここが面白い

クリスチアナ・ブランド『疑惑の霧』読み中。

ある人物Aが殺人容疑で留置所に入れられてしまう。そして物語は取り残された人々を中心に進んでいくのだが、しばらくするとAにはなじみの囚人仲間でもできたらしく、p.258に

例のガラス壜の破片の紳士が坐りこんで、さかんに身の上話をしてきかせている。

という描写が出てくる。

「例の」? はて、そんな紳士出てきたっけか? と、すっかり記憶力に自信を失いつつ、ページを遡って探していく。

するとp.234に、Aの身を案じる人物Bの述懐として

ついこの間の新聞にも、それまで一面識もなかったような少女を犯した上、絞め殺した男のことや、また別に、居酒屋の喧嘩で、女をガラスの破片で殴って傷つけた男のことが出ていたが、

とあるのが見つかる。

Aがそんな犯罪者たちと一緒くたに勾留されているのではないか、とBは心配しているわけだ。

が、この段階では「女をガラスの破片で殴って傷つけた男」はあくまで「そんな犯罪者たち」の一例、ないしは「留置所に入ったらおそらく出くわすであろうような種類の人間」をイメージさせるものとして挙げられているようにしか読めない。

いくら似たような時期に逮捕されたとはいえ、どこで起きた事件だがわかったものじゃないし、それがAと同じ留置所に入れられようとは、ふつう一般には考えられない。仮にBが「ガラスの破片」云々を眼前にまざまざと思い浮かべていたところで、それはむしろ杞憂というか妄想と呼んでいいだろう。

というわけで、p.234の新聞紙上のガラスの破片の男は、われわれ読者の記憶からすぐさま消え去ってしまうのである。

が。

それがp.258の「一方そのころAは」のくだりになって突然、あたかも既知の人物であるかのごとく「例のガラス壜の破片の紳士が」などと具体化されてしまうのである。

このユーモアのセンスがたまらない。こういうのは映画とかなら比較的やりやすそうだが、活字でやるにはかなりの技巧を要するのではなかろうか。

ただ、この手の面白さは初めてではないような気もする。中井英夫の『虚無への供物』の、たとえば鴻巣玄次。あれがこんな感じじゃなかったかな。